-世界と世界の間に立つ時



 「異なる世界」をみて生きる「異なる文化文脈」からくる人が、「互いの世界に立ち共感する」ということ
それが、芸術媒体を通して起こるということ 


その空間に直に触れた、観察した時の記録 


バリントと、ギターの波の中にいた夜

07/10/2023 

最初は夕食時の、リビングでの何気ない会話だった。

バリントが前日ギターを弾いていた話から、どんなtasteの音楽が好きかという話や、ハンガリーの歌の話をしながら、彼はご飯をつくり、私は食べていた。まだ日常会話をする程度の親しさで、どこか会話のリズムを探るような、少し話し続けることに緊張していた。

ナチュラルな自分を、開けっぴろげにできないような感覚だろうか。お互いの第一印象の延長線をなぞっているようだった。


スピーカーで音楽をかけて歌うというのが、最初のフックだった。これには、どこか力があると思う。好きな曲の広がる中に入ると、力が抜けてきて自然と好きな姿勢になったり、指を鳴らしたくなったり、自分の好きなようにいたくなる。そして大きく歌うというので、人のことを気にかけるのを一旦やめて、大きく自分のままで、そういう時の空気が自分からでてくる。その空気というのは伝染するもので、彼の笑顔が、誰かを気にかけるものから、自分が満たされた時にでるものになっていた。


ご飯のあと、一緒にソファに座り、お気に入りだというハンガリーの歌を聴いた。ハンガリー語のその歌を形作る”何か”というのが、PCの英語翻訳では見たくもないほど変容し、彼の詰まりながらでてくる感覚の形容で、少しずつ、ぼとぼとと私の中にそれが入ってくる。けれどそれはどこかまったく掴めなくて、さびしかった。


性能の良い翻訳機だけで、人間が生きていけないのは、翻訳機はラング(注1)のみを変換し、パロール(注2)をなきものにするからである。しかしそのパロールにしか表しえないその文化のアウラこそ、その文化を生きる人間を形作っている。そこに触れるのは、どうしたらいいのだろう。


自己と音楽の関係性が話される時、互いの生きる世界を知覚する際の本質がつかれる。なぜなら自己と深く結びつく音楽というのは、時に直感的にも経験的にもその人がその人である土壌の成分であり、時に生き方の本質を形成しているからである。「文化とは、人の生き方を形成する」というのがあるが、ある音楽はそこで一つの文化圏が形成されることが、今の時代特にありうると思う。


その音楽とは、私にとってEastsideであり、また踊り子であった。彼のお部屋の小さな灯りのそばで、アコースティックギターの細い線から生まれる何かだけが、存在していた。ここで、先程の電子スピーカーとは全く違うことが起こるのである。ハンガリーのさびしく乾いた歌が、彼とギターのまとまりから生まれて、ここ全体が満ちた時、その時、ギターの細い線は、太く太くハンガリーの風を通したのである。目を閉じると、ハンガリーの土の香りが、日の光と葉の色が、ここにあった。


ギターにあり、スピーカーにないものとは、何なのか。翻訳機が、言語学でいうパロールを消滅させる時、電子スピーカーは、音楽でいうパロールにあたるものを消滅させるのかもしれない。


ギターを弾き終わり、思い切り歌い終わったあと独特の、空気のほぐれたあたたかさのなか、小さな灯りとふかふかなブランケットのなかでは、自然と言葉がでてくる。重すぎないくらいに、お互いの中の中にあるものが、中にあったときの温度を保ったままででてくる。互いの過去の話、今の話、これからの話は、最後に互いのお気に入りの写真をシェアするという軽さへ収束していった。自分の中にある温度をもつものは、外側がその温度になった時に初めてチャネルがひらいておのずと出てくるのだろう。そしてこの空間は、その温度でできていた。


彼が、ハンガリー出身の人、この大学のこの学部の生徒、ではなくなった瞬間だった。その人がその人の名前だけを抱えている状態、ただその人であるという状態を掴んだ。国、外見、興味、全ての人工的なラインが消えていった後に、ただその人と、ただ私だけが残った。


次の朝から、私たちの間の何かが確実に変わっていた。心は固い服を着ず、素肌で触れ合う感覚を知っていた。


注1: 社会全体で共有される抽象的な言語システムや規則の集合。 
注2:個々の話者がラングを使って具体的な場面で行う発話や書き言葉。ラングという共通のシステムに基づいて、個々の状況や意図に応じて変化する。 

金曜の午後、もなとボロネーゼパスタを食べながら

14/10/2023 



あああああ

心が沸騰するまで躍るとき、口から幸せの音が漏れている。どんな感情なのかもわからないまま膨れてでてきてしまった。本物のイラン、という言葉。


もなは、イランに誇りを持っているの。

と言ったときのもなの目の輝きは、もなの内には和だけでなく、イランの目に見えない全てが溢れていることを、初めて感じ取らせた。


言葉が、他の国の言葉とは、全く違うという。文法や文字が違うというのではなく、言葉が違うのである。例えば道案内をしてくれた見知らぬ人に対して、日本ではおそらく「ありがとうございます」というが、イランでは「私は自分を犠牲にします」、つまりそれくらいあなたのことを愛しています、と言うという。「あなたが好きです」という時は、「あなたの周りをぐるぐると回ります」、つまりそれくらいあなたのことを愛しています、と言うという。もなはそんな言葉を、「情熱的」と表していたけれど、それはイランの外の世界の温度計のチャネルを通して、そこで伝わるように変換された言葉であることが、痛いほど伝わった。


もはや、ラングなどあり得るのだろうか。例えば「愛している」という言葉をペルシャ語から日本語へ翻訳するとき、骨格であるラングは変換されるが、そこを取り巻く日本とイランそれぞれのパロールは翻訳できないという。本当にそうだろうか。「愛している」という時の直接的な共通の意味、骨格ですら、全く違うものを表しているように見える。


イランでは、週に一度くらい、家族で大きな集まりがある。そこでは床に座り、女性たちが作るたくさんの料理が振る舞われ、お茶を飲み、そのあとは、踊るという。お茶は、アールグレイにカルダモンなどのスパイスを加えたもので、イランの人は一日に5杯くらい飲むという。そこにいる全ての人が踊る様子をみると、その人たちはどこか本当に魅力的だった。人間の内側から溢れ出るものが、身に纏うものや音楽や踊りにのせられて、シナジーのように溶け合う熱のこもった瞬間だった。その人たちの、海があった。


もなは、踊る人だった。ホームパーティでも、クラブでもどこか、もなの踊り方というのがあり、今思えばそれは、もなのやっていた日本舞踊と、この踊りの融合の要素が確かにあった。そしてその時のもなは、本当に人を惹きつけていた。


何でもなは、イランに誇りを持っているの、と聞いた。「イランは色んな報道などを通してネガティブなイメージを持たれることが多いけれど、本物のイランは全然違う。だからそれを私が伝えたいと思う。」と言っていた。本物の、という言葉が、部屋へ戻るエレベーターの中まで残っていた。


本物のイランは、バリントがハンガリーの歌を翻訳しようとした時と同じだった。どこか、ああ全く分かっていないんだろうな、ということが分かりつつ、その人の体から、細い細いチャネルを通して何かの一端を掴むのである。


イランには、確かにイランの温度計があった。互いの信じる世界を、互いが心で知覚する、というのは、互いの温度計を持つということである。それは、その土地を踏まなくても、起こりうるものなのだろうか。




食後のパンに、トルコのマーケットで買ったというブドウのソースをかけながら、空間が終わっていく。ここまでが起こったのは、バリントとのそれと同じように、「名前だけを抱えている状態」があったというのがあるだろう。


パスタを食べる前、一緒にバスにゆられながら、「自分は○○人だ」と言うならば、○○には国が当てはまる必要はないだろう、という話をしていた。ただ、自分がどのように生きてきて、何を感じたか、それだけが残るのである。だからこの時間、私たちは何者でもなかった。と同時に、だからこそpureに、確かに、私たちが抱えているものへ目を輝かせられた。


週末は、ブドウのソースを見てこようと思う。徒歩4分だから。


バハリと、Ingwerと、物語のはじまり

25.11.2023


3時間前まで、ここで知り合った人と、クリスマスマーケットでアップルジンジャーパンチを飲んでいた。ジンジャーという響きが、ハリーポッターの中のどこかファンタジーなものではなく、この頃毎朝、私の心に上から下まですっと水を通していく私の中のものになりつつある。それは生姜と言うより、Ingwerだった。私にとっての生姜は、富士のおじいちゃんの家の勝手口から運ばれてくる、世界一おいしい味噌付きの葉生姜で、私にとってのIngwerは、私にとっての本物の1つだった。

My reality.
Two pieces of Ingwer floated in a mellow mug cup.
A hand with hot potatoes with a slow walk in every Christmas market.
Laughing with a bunch of Lager bins under small wooden houses in front of the church.

ちょうど1年前の冬に思っていたことがある。梅の木の下で、アメリカから来たおばあさんとおしゃべりをしていた時のことだった。物語のはじまりは、想像ではなく、誰かの、もしくは世界の真実にあるのだということ。My realityを、違う"言語"を介して伝えると、全くのガラクタか偽物になって、定規で測られ、値札が付けられ、魂が押し込められ、本当になかったかのように変質していく。そうではなくて、My realityを、それでありつづけさせるために、物語は生まれたのだと思う。

このクリスマスマーケットにあった全てこそ、物語のはじまりであり、本物であった。昨日ふみかさんが「クリスマスマーケットに来たら、本当にみんな幸せになるよね」と言っていた。それはたぶん、自分をよく見せるものではなく、自分が本当によくなる何か、がそこには満たされていて、それはばらばらの人間たちが共に肌で触れられるものだったということだった。スマートフォンを見てる人がいないことが、全てを物語っていた。

マーケットにいる間、一緒にいた人の目をずっと見ていた。目をただみているだけで、全てがよかっった。顔の形も年齢も、ルーツも背の高さも全てがなくなって、オリーブブラウンの目とその奥の形のない何かだけが残る。別れ際の、二回のキスとありがとうのハグは、この世界の"挨拶"のはじまりだったと思う。




The Other Way Around

 05.03.2024


スカイは、私が初めてポートレートを描きたいと思った人だった。正確に言うと、ある日のお風呂上がり、ポートレートのイメージがうっすらと自然に立ちあらわれた初めての人だった。この時のポートレートというのは、Outlookをそのまま写実するものではなく、「見た目」に強く付随するnationalityなどのラベルをすべて剥しとった時に残る、その人をその人たらしめる、とろとろと全身を巡る何かをキャンバスに流し出すものである。

ふと、今夜描きたいなと思ってスカイに連絡すると、アトリエまで来てくれた。私のアトリエは、作業場というよりも住処に近い。自分の空気を部屋の片隅に作ったものである。直径35cmくらいのほの温かい丸いランプとコーヒーの香りのキャンドルの灯りだけをつけて過ごしている。リサイクルショップで買った色あせたカーペットを深紅の絨毯が囲み、その上に油絵セット、ギター、ブダペストとオハイオの古本屋で買った詩集、はるちゃんからもらった雑誌、木でできた指輪、クッキーとドライイチジク、紙とペンとポストカード、旅をしていた時のジャーナル、学校帰りの鞄などがぐちゃぐちゃに置いてある。世界の色んな道をたどって、私自身の内部を通って形成された、それら1つ1つの旅路が、地球上のこの3m×3mで今、たしかにここの空気を作っていた。

スカイにはアトリエに来るとき、1つお願いをしていた。スカイをスカイたらしめる旅路を持ってきてもらうことだった。ああこれが自分だ、という服やアクセサリーを着てきてほしいとお願いした。お気に入りの香水、今読んでいる本や日記、スカイのプレイリストを流すスピーカー、その他思い入れのあるものを持ってきてもらった。

ポートレートを描くというよりもただ、同じ空間にいた。一つ一つの旅路の話をして、音の波に揺られて、私が静かに描く波に入る時は、スカイは静かにジャーナルを書き、本を読んでいた。人と人が1つの箱に閉じ込められる時の緊張感が、まるでなかった。スカイと話しているという感覚はありつつ、英語を話しているという意識がなかった。自分が今英語を話していると自覚する時、私は時々目の前の人と心の隔たりを感じたりしていたが、それが全くなかった。そしてふと、私の一番大切な旅路を、初めて日本語以外を使って、言語という補助線を越えた先まで、しっかりとその人へ通せている、と気づいた。

二人でただこの空間にいて、たくさん笑って、私たちは子供だった。そして、たしかに私たちだった。スカイは私にとってとても魅力的な人で、ただ最初は普通のクラスメイトの一人だった。むしろあまり関わらなさそうだとすら思っていた。今思えば、私の方から、アメリカ出身というラベルを貼り、どこか何か、怖かったんだと思う。無意識のうちに、「アメリカ」という表示のもつ「強さ」「ティーンエイジャー」みたいなものを、彼女の中に見いだそうとしていたと思う。今となっては、それがどんな意味だったかさえ、忘れてしまった。ラベルが壊れるきっかけは、スカイから滲み出る「旅路」と、彼女のどこか私と線が通る「柔らかさ」のようなものの片鱗を、目の端で捉えることの積み重なりだった。大きな銀の指輪と黒い紐のネックレス、太陽の下原っぱにいると思うと、見たこともない夜の世界が似合って、古い音楽を聴いていて、そして何よりも彼女の表情は柔らかかった。どこか私と線の通る香りを感じて、どこまでも掴めない何かを見てみたい、その頂点に達した時、筆から絵の具が出てきた。

人は、その人の旅路が封じ込められた、色んなモノに囲まれて生きていると思う。旅路を抱える「モノ」は、その過去の大切な瞬間や、その瞬間たちにより生まれてきた「その人たらしめる何か」が存在することによって初めて、旅路がinfuseされると思っていた。けれど、筆から絵の具が流れる際に、キャンバスに何がでてくるのかを強くみようとした時ふと思ったのは、実はその反対でもあったのかもしれないということだった。スカイの目に見えない内側の何かを、キャンバスで「みえる」ものにする時、実はその「モノ」自体がその「得たいの知れない何か」の根源である、始まりであるということを、目の端で捕まえた。

自分の旅路を含むものに囲まれる瞬間、自分をかたどる外の世界との境界は、自分の身体よりも少し外側まで拡張され、「その拡張された状態を存在させ続ける『モノ』たちは、ずっとその状態を保ってくれる」と確信されるとき、自分は「自分」を確立し守るための境界を、皮膚の一番外側に張り巡らさなくて済む。そのような二人の旅路の空間が重なったから、二人で、ただスカイとさおりとして、他に何も持たずに、同じ空間にあるということができたのではないか。

P.S.
この数時間前、私は将来の旅路と出会っていた。友達の古本にはさまれた細長い紙の端には、Book+と書き留められていた。それは、香水の名前だった。